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[Zoom祈りの会メルマガ: 000234] 2025年3月22日(土) 動画による祈りの会_朗読された五井先生のご法話【頂き直す生活】

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3月22日(土)の『動画による祈りの会』において朗読された五井先生のご法話の書き起こしを送ります。


250322_動画による祈りの会_朗読された五井先生のご法話【頂き直す生活】

※3月22日(土)に朗読された五井先生のご法話 ―『霊的存在としての人間』から

 

【頂き直す生活】

五井昌久著

『生かされているということ』

頂き直す生活というのは、浄土門の根本的な生活方法ですが、どんな宗教でも、結局は、頂き直す生活をするようにならなければ、神の子、仏子の生活はできないのです。

では頂き直す生活とは、いったいどんな生活なのか、少し話してまいりましょう。

人間はこの肉体身を、肉体をもった父母から生み育てていただきます。ですから父母は、肉体身の親であり、恩人であることは間違いありません。

しかし、父母の生命も子どもの生命も、父母自身がつくったものでも子ども自身がつくったものでもありません。父母の祖先の祖先の、ずーっとさかのぼった祖先から分けられたものであり、その祖先の生命も、どなたからかいただいたものであります。

そのどなたかは、生命の基であり、大生命絶対者とでもいおうか、人類の発生しない昔の昔から大宇宙に生きつづけている生命であり、大智恵、大能力の存在者であるわけなのです。

その大生命、大智恵、大能力の絶対者こそ、私どもの生命の親様であり、私どものすべてのすべてであるのです。

こんなわかりきったことを、はっきりわからないでいるところから、人類の不幸がはじまっているのであります。何から何まで自分で納得しなければ信じない、という人がありますが、この世の中で納得できることなど、どれ程あるでしょう。

大体一番大事な生命というものがわかっていないのです。生命というものはいったい何なのでしょう。すべての生物を生かしているもの、に違いありません。生命があるので、脳も内臓も血管も働いている。そして肉体が保たれている。

こういう一番大事な生命というものがまるでわかっていないで、納得できないことは信じない、などといっているのは、甚だおかしなことです。

信ずるも信じないもない。そんな想いとは関係なく、人間は生かされているのであります。生かしているのは、生命そのものなのです。

生命がある以上は生きている。その生命は自分でつくったものではなく、与えられている、ということになるのですから、人間は自分で生きているのではなく、生かされているのだ、ということになります。

生きているのではなく、生かされているのだ、と知ることが、宗教信仰の第一歩なのです。生かされている生命を、充分に生かしてゆこう、という人間観、人生観こそ、人類を更に一段と進化させる考えなのです。

自分でつくった生命でてない、与えられて働いている生命を、どうして感謝もなく、自己のものとして自由にしようとするのでしょうか。与えられている生命なのだ、いただいて生きている生命なのだ、という神仏への感謝がなくて、自分勝手な生き方をしていて、どうして、神のみ心に叶う、平和な幸福な世界が生まれてくるものですか。

生命への感謝のないところには、真の幸福が生まれてくる筈がありません。個人も人類も同じことです。

『肉体は霊の器』

人間が自分だと思い、自分の体だと思っている肉体身は、その重要ポイントの働きの殆どが、自己の意志によって動いているのではなく、自然に自己意識以外の力によって動いているのであります。心臓、肺臓、胃腸、肝臓、腎臓と数えるより、数知れぬ細胞そのものが、自己の意志、意識にかかわりなく働いているのであります。

その動かしている力は何か、といいますと、一口に人間が生命と呼んでいる力に他なりません。人間の生命は、肉体以外の世界の力を、肉体の内部に導入して働かせている、そういう立場にある働き、とでもいう存在です。

この生命が、肉体内部に働きかけなくなれば、その人間の肉体の働きは停止してしまい、死という形がそこに現われるわけです。

人間の死とは、生命の去った、生命が働きかけなくなった、肉体の姿、ということになります。ここで考えてみなければならないことは、生命の去った肉体を、果たして人間と呼ぶのでしょうか。人間そのものではなく、人間の( )(なきがら)というべき、一つの物体に過ぎないのです。

と致しますと、人間の中味は生命でありまして、肉体は単なる容器に過ぎないということになります。テレビジョンに例えれば、肉体はテレビジョンのボックスであり、放送局からの電波の働きによって、放送局で演じている(※放送している)事件事柄をうつし出しているのだ、ということになります。

光波や電波は、生命波動ということになり、その( )(もと)には、個人としての生命と、その奥に大本である大生命とが働いているのだということになるのです。

ですから、肉体人間そのものを唯一の人間のように思っている人は、容器だけをみて自分だと思っている錯覚に陥っているわけです。

容器である肉体保護のために、人間の本質そのものである、生命の働きを損わせるような生活をするならば、その人は実に愚かしい人というべきなのですが、実は、こういう人のほうが現在の世界には多いのであります。

『一人の人間が誕生するには』

一人の人間がまだこの世に誕生しない以前から、このAならAという肉体人間を形成する生命の力は、すでにその両親に働きかけて、その母親の胎内でAの肉体をつくりあげているのであります。

一人の肉体人間が、この世に誕生するためには、まずその人間の守護神が中心となり、子どもとして生まれる生命(霊魂)と、その両親となるべき生命との調和を計ってゆくのであります。

Aの生命が霊界から肉体界まで延長されて働くことになるのですが、協力している両親の生命の働きと、その両者の上に立って調和のひびきを放っている守護の神霊と、諸々の生命要素が相協力して、その役目を果たしてゆくのです。

AならAという人間は、肉体のAという人間として生まれる前に、もうすでにAという生命体として存在しているのですから、Aという肉体人間は、Aという生命の、或る時間的の現われに過ぎないのであります。

そしてAという生命体は、大生命、大神様の分生命(わけいのち)で、大宇宙の運行を、神霊の世界において、自己の受け持ちの分だけ働くようになっているのです。

肉体界のAもやはり同じことなのですが、肉体界を蔽っている、物質波動や種々の業の波動に妨げられて、神霊の世界のように純粋に大神様の働きができないのです。

大神様の働きができないばかりでなく、神霊世界に働いている自己の本体を忘れ果てて、肉体身にまつわる想念意識だけを、自分だと思いこんでしまったのです。そういう人が、この世の中の大半をしめているのです。

この肉体身だけに想いが把われているかぎりは、生命というものが、肉体身にだけ働いていると思ってしまいます。生命が肉体身にだけ働いているという迷信を打ちはらうためには、やはり父母、祖父母―先祖というように、上にさかのぼって、生命が肉体人間以前に存在しているのだ、という基本を認識しなければ駄目なようです。

『愚かしい迷信』

しかしながら、学問知識の深い、いわゆるインテリのほうが、教育の浅い人々より、こういう生命の基本を認識していないのです。

自分というのは、こうした肉体身である自分である、生命というものは、肉体身そのものに働いているだけで、肉体消滅と共に無くなってしまうものである、と思いこんでいるのでありまして、肉体消滅後も生命は他の世界で存続しているのである、つまり霊魂の世界の存在などを説く人を愚かしい人として、一笑に付してしまおうとする傾向をもっているのであります。

こういう人たちは、神という言葉をいうのさえ恥かしいと思う妙な感情をもっているのです。知識人と称する人々の多くは、学問という名前のつかない知識は、自分たちの知識として受け取らない変な癖をもって、インテリの誇りとしているのであります。

こういう人たちが、宗教的には一番救われにくい人たちで、永遠の生命の流れから、いつも外(はず)れて生活してゆくことになるので、いつまでたっても、小さな狭い肉体身という枠から出ることができずに過してしまうのです。

それだけならまだしも、肉体身以外の生命の世界を否定していますので、肉体死後においては、生命の光明をみることができずに、生命の無い、真暗闇(まっくらやみ)の世界で、想念意識だけが働く、全く身動きできない年月を送らねばならなくなってしまうのです。恐るべき迷信の結果であります。

ですから、たとえ、学問知識の殆どない人であっても、素直に神の愛を受けて、すべてを神様から恵まれていると感謝して生活している人は、常に肉体身だけでなく、広い、深い神の世界に住んでいることになり、あの世に行っても幸せな生活を送ることになるのであります。

『神の御恵み』

人間は、一番大事な生命からはじまって、すべてを神様からいただいて、生活していることは確かなことです。神様は或る時は漁師となり、或る時は百姓となって、人々の食糧の供給のために働いて下さり、或る時は織物屋となり、建築屋となって、人々のためにつくして下さっているのであります。

何故ならば、漁師も、お百姓も、織物屋も建築屋も、みな神様の生命を分けられて、この世で働いている、神の分生命(わけいのち)であるのですから、人々は、自分に働いている生命だけではなく、その生命を肉体身において生かしきるための配慮は、すべて神様のほうでなさっていて下さるのであります。

肉体の人間の力では、水の一滴、少量の空気でさえも、神の基本的要素を使わなければ、生み出すことができないのです。その事実を正直にみつめる必要があるのです。

その事実を正直に素直にみつめてまいりますと、何者何事につけても、感謝の心が起こってきます。昔から行われておりますのは、太陽に対する感謝行です。

太陽に対する感謝行というのは、特に宗教的という立場に立たぬ人でも、昔からしておりますが、こういう素朴な感謝行こそ、頂き直す生き方の根本的な生活態度といえるのです。

太陽の光がなければ、万物が生育致しませんし、人類も生きることができません。太陽光線は正に神の御恵みなのです。この事実を素直に感謝でみつめることのできぬ人の多くなっていることが、人類の悲劇なのです。

日本のインテリ階級というのは、不思議と、神を語ることを恥じらい、物事についての感謝を現わすことを嫌います。この変な恥じらいが、自然と人間との間を引き離してゆくのであります。

黒住教の教祖の宗忠神人は、肺病になって、もう死が迫ってきている状態の時に、或る日太陽を凝視しつづけ、太陽との一体化によって、肺病が即座に直ってしまって、教祖になってしまったのですが、そのように、太陽との一体化は人類にとって大事なことなのです。

宗忠神人は、一度滅亡しかかった肉体身を、太陽との一体化によって、頂き直したのであります。人間は誰でも、太陽の御恵み、空気や水やその他諸々の他動的な働きかけによって、日々瞬々刻々、生かされつづけているのでありますから、日々瞬々神の御恵みを頂きつづけて生活していることになるのです。

自分自身でつくった生命でもないものを自分自身の生命であると思いこんでいる愚かさに、なんて人間は気づかないのでしょう。

人間は日々瞬々、頂き直し、頂き直して生きてゆくものなのです。その事実を、はっきり認めよ、と私は申しているのであります。

太陽が神の慈愛の現われであるように、大地にも山川草木にも、あらゆる自然の風物現象には、神の生命の働きかけがあるのでして、人間が太陽との一体化のような心境で、神のみ心と同化していさえすれば、すべてが、人間の働きを助ける力となってくるのであります。

ところが、人間が自己の生命や生活を、あたかも自己の力によってつくったような思い上がりをしておりますと、神の慈愛のみ心と離れてしまい、自然の運行とも遠ざかって、滅亡の方向に突き進んでしまうことになるのです。現在の人類は大体その方向に進んでいるのであります。

『感謝の心は祈りのこころ』

人類を滅亡の方向に向かわせないためには、どうしても、頂き直すという謙虚な、謙虚というより当然な生活態度にならねばいけないのです。

すべての権能は神のみ心にあるのでありまして、人類はこの権能を分け与えられて、神の理念をこの地球界に現わしてゆく、そういう天命をもっているのであります。

神が在っての人類でありまして、神を離れた人類というのは、滅亡するより仕方のない存在となるのです。ですから人類は、一日も早く、神との一体化を計って、神の権能が、真直ぐ人類の上に働きかけられるような態度をもっていなければいけないのだ、ということになります。

そのためには、たゆみない祈り心が必要になるのであります。神様ありがとうございます、という神への感謝の心も祈り心です。世界人類が平和でありますように、という心も祈り心です。日本が平和でありますように、私達の天命が完うされますように、というのも祈り心です。

そして、そういう祈り心に先んじて、すべては神様から頂いて生活しているのだ、という、全面的神への感謝の生活ができていれば、申し分がないのであります。

『祈り心と念力は違う』

祈り心と、念力とは違います。祈りとは、神の生命のひびきに、肉体の想念が一つになって、本心をひびきわたらせようとする、その方法であり、念力とは、自己の思念の力を集中することであります。

ですから祈りは、神のみ心を、常にそこに現わすものですから、その結果は調和したものでありますが、念力は、神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現わすのでありますから、その人の念力の達成が神のみ心に反する不調和なものであることが多々でてくるのです。

祈りは常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の想いを全託して、神のみ心にすべてをゆだねる方法です。

神のみ心に人間の想念をゆだねつくしますと、人間の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、その人のあこうでもないという想念波動がなくなり、その人の本心のみが働き出します。本心とは神の心ですから、神のみ心の完全性がそこに現われて、物事が成就してゆくのであります。

念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギーが、集中して或る目的にそそぎこまれるので、そのエネルギーの力によって、目的が達成されるのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネルギーをそそぎこめば、両者の念力合戦になってしまい、両者が傷つくのであります。

念力が強いことは、弱い人より、物事が成功していってよいでしょうが、あくまで自我の力ですから、宗教的な悟りの境地とは反対の方向の力で、宗教者が、念力を人々にすすめるとしたら、それは邪法であると思うのです。宗教者の目ざすところは、神仏の世界でありまして、神仏を離れた自我の世界ではありません。

釈尊が空(くう)になる坐禅観法を教えたのは、空にならずに、想念波動のエネルギーをつかっての念力の修練では、三界の苦しみを超えることができないのを知っておられたからなのであります。

釈尊が、バラモンの教えを超越した仏教を立てられたのは、念力をも含めた、あらゆる肉体人間の把われを放つことによって、人間は神仏の世界と一つになり得るのだ、ということを教えたかったからなのであります。

人間はいつかは、神仏をはっきり自己のものとすることができるようになるのですが、その時代の前に、自己の力でてき得る方法として、念力を謳歌する時がくると思います。そうなれば、念力合戦のような状態が諸々で起こってくるでしょう。

しかし、真の宗教者は、そうした念力とはかかわりなく、ただひたすら、祈り心で明るく正しい生活をつづけていればよいのであります。世界平和の祈りの日々こそ、明るく正しい生活をつづけるための神との一体化の祈りなのであります。

頂き直す生活と、世界平和の祈りの生活こそ、この汚れきり、乱れきった地球世界を浄め、大宇宙の一員としての、地球世界につくりあげてゆく、最もよい方法なのであります。

『焦らず無理せず祈り心で真剣に生きよう』

人間は焦ってはいけません。焦って急いで得をしようと思ってはいけません。人のうまい話に乗って、すぐにでも幸福になれるように思ってはいけません。

お金持になるのも、地位が上がるのも、幸福になるのにも、すべて、それ相当の年限がかかります。そして、チャンスというものもあります。焦らず無理をせず、祈り心で、じっくりと与えられた立場を真剣に生きてゆくことが大事です。

すべてはあなた方の守護の神霊がみておられます。ですからすべての運命を、守護の神霊に託して、守護霊様、守護神様、ありがとうございます、といつも感謝しながら、世界平和の祈りの生活をつづけていって下さい。一番無理なく、一番妥当なあなたの運命があなたの前にひらいてゆくのです。

我欲をつのらせ、小智才覚をつかって、商売が一時繁盛したとしても、それは砂上の楼閣のようなもので、いつかはこわれてしまう運命です。いつまでもこわれない、ゆるがない運命というのは、神仏から、日々瞬々刻々頂き直す運命です。

南無阿弥陀仏といって、阿弥陀様に感謝するのもよいでしょう。神様と感謝するのもよいでしょう。とに角神仏から頂き直して生活してゆくことに感謝しつつ、真剣に生きていてこそ、人類の未来が明るく光明化してゆくのであります。

肉体人間の能力だけて、この地球人類の未来を平和にしてゆこうという、思い上がりはさらりと捨てて、人類を今日まで、守り通してこられた、守護の神霊への感謝を根本にして、地球人類の進化の道を切り開いてゆく、智恵能力を、神から与えられるよう祈りつづけてまいりましょう。

今日までの人類の生き方で、どうして地球人類の進化があるでしょう。進化どころではない、人類の思い上がりは、核爆弾となり、念力合戦となって、地球の波動をますます混乱させ、天変地変をひき起こす原因をつくりあげているのであります。

そのすべては、神のみ心を外れた、肉体人間観にあるのであります。人間とは神霊のひびきを、肉体という器に受けとめ、肉体という器であり、場であるところで、神の理念の大調和の世界をつくりあげてゆく天命をもっているものであります。

そのためには、一度肉体人間観を捨てきって、神のみ心にすっぽり入ってしまう、世界平和の祈りをなしつづけ、神のみ心の中で、すべての人々が心を一つにして、人類の平和への念願を成就してゆくように努めるべきなのです。

なんにしても、頂き直す生活こそ、これからの人類すべての心構えとなすべき生活であることを、私は再び三度び強調するものであります。

(昭和49年5月)