五井先生随聞記(6)_山崎多嘉子さん

「神人」第15号(2004年11月)より

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木や花の精についてお話し下さったことがあった。

「聖ヶ丘の庭を歩くと"ゴイセンセイ、オハヨウゴザイマス"という声が聞こえる。はじめは誰かな? と思って見廻わしたけど、誰もいない。よく見ると、それが小さな花たちなんです。とてもかわいい。花の精はいかにもその花らしいって感じでネ。だから私はいつも話しながら歩くんです。
愛宕神社の大銀杏、それは樹齢四百年くらいで、銀杏の精は白い鬚の老人の姿が迎えてくれる。松の木はまたちょっと珍しくてネ、透き通った黄みどり色の衣冠束帯で現われます」

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「私は常識人です。家を空けて出る時は、必ずガスは閉めたか、電気はどうか、水道はしまっているか、戸締りは大丈夫か……と確かめます。不安なのではない。この世の生活としてそうするのが当り前でしょ。当り前のことを当り前にするのが大事です」

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「夫婦というものは、親子のような関係になってしまうと、うまくいくんだろうね。例えばあるうちの場合、完全に父と娘だからね」
とあるとき先生はおっしゃった。

聞いておられた村田正雄さんが殊更目をまん丸く、クリクリさせて云われた。

「うちはお母さんですわあ」

どっと笑いが起った。

村田正雄さん:副理事長も務められた会の長老。霊能豊かな方で、『私の霊界通信』『霊界に行った子供達』などの著書が多数ある。

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映画館で"キング・オブ・キングス"の映画をご覧になった時のお話を、五井先生がして下さった。

「あれはいい映画だったね。聖書に基づいて作った何本かの映画の中で、イエスさんのことが一番よく表れているように思うね。あの主演男優はイエスを演じるために生まれてきたような人だ。目がきれいだった。

イエスさんがローマ兵に捕らわれて、後手に縛られてピラトの前に引き出されるシーンがあったでしょ。あの辺から本もののイエスが入ってきたんです。あの場面からガラリと変った。神の姿のイエスになった。

はりつけのところでは、画面のイエスさんが、パーッと私に光を送ってよこした。私は観客席で大きく手を広げるわけにいかないから、こういうふうに(小さく両手をひろげて)それを受けたんです」

私は吸いこまれるようにお話をうかがっていた。その時、夫が一言発した。彼はよく先生のお話に対して、漫才の相棒のように、すぐあいの手を入れる面白い癖があった。

「先生、私はなぜかあの映画を見て頭が痛くなったんです。いっしょに見ていた家内のほうは何ともないのに!」

先生はチラッと私の方に目を向けてから「それは、それだけのわけがある――」

「エッ、それじゃわたしはユダだったのですか?」

「いやいや、ユダじゃあないよ。ハハハ」

と先生はお笑いになった。皆も彼の表情がおかしかったので笑い出された。

何日かたってから彼は云った。

「そうかあ、もしかしたらペテロだったのかなあ……」(これは少々アツカマシイ)

真偽のほどは全く知りません。

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江戸時代にキリスト教禁止の際に行われた、という踏絵の話が出たことがある。

「踏絵については、どう考えるべきでしょうか」という質問だったのであろう。

先生は、「そんなことで信仰心の深さなど測れるものではない。今の世の中では勿論あり得ないことだけど、もし私の写真が踏絵に使われたらどうします?

そんな時は遠慮なく踏めばいい。

私は痛くもかゆくもない。

踏まないで処刑なんかされたら、本人はいいとしても、家族はどうなるか。家族はやりきれないでしょ。

堂々と踏んでおいて、あとで真理のために働けばいいでしょ。

踏まないから信仰心が厚い、踏んだから信仰心が薄いかと云うと、そんなものではないんです」とお答えになった。

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ある日、元クリスチャンで、今も時々教会を訪れるという一人の法友が云った。

「キリスト教では、人類の犯してきた様々な誤りをみんなで懺悔して、泣きながらおわびの祈りを神に捧げているけれど、私たちはそんな罪の許しを乞う祈り方はしなくていいのかしらね」

この言葉は前生クリスチャン(五井先生のお言葉によると)である私には少々心にかかるものであったのだろう。昱修庵いくしゅうあんで五井先生にお伺いしてみた。

「先生、人類は今まで生き方を間違ってきたのでしょうか?」

私はどこか悲しみを含んだ重い気持だった。

先生は即座にキッパリとおっしゃった。

「いいえ、人類は間違っていません。間違ったように見えるのは、人類の消えてゆく姿のほうでしょ」

私は咄嵯に涙が出そうな感動を覚えた。

「ハイ有難うございます」と最敬礼した。

この「有難うございます」は、なんと、瞬間、人類の代表者になったような気分で、心から五井先生に感謝申し上げたのである。

それは震えるほどの感謝であった。

最高の幸せであった。