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2025年11月9日(日)_井上輝繁さん_講話会

はじめに―「先生」と呼ばない空気が生まれた背景

皆様、こんにちは。本日はお集まりいただきましてありがとうございます。本日は、2月9日に続いて二回目になります。

それでお話の前に、さっき少し思ったことをお話させていただきます。ご存知の方もいらっしゃると思いますけれど、私が入信したのは、昭和45年なんです。

1970年の頃の聖ヶ丘道場では、五井先生・昌美先生がいらっしゃって、村田正雄さんっていう人が村田先生、斎藤秀雄さんが斎藤先生、佐久間筆八さんっていう人は佐久間先生っていうように、本部の人はみんな「先生」を付けて呼んでいました。

当時は、別にそれを何とも思わなかったんですが、だんだんだんだん講師の方が増えてきて、私も講師になったんですね。そうしたら、みんなから「井上先生」って言われるようになりました。それで、「先生」って言わない方がいると、「あれ」と思ったりすることもあったんです。

それが年々、講師の方が増えてきたら、みんなが先生になっちゃったんですよ。そしたらそのときに、当時の瀨木理事長が、「こういうことはやめましょう」「先生って呼び合うのはもうやめましょう」っていうお話を打ち出されました。

当時、由佳先生たちはまだ子供でしたので、「先生」と呼ぶのは五井先生・昌美先生・裕夫先生だけで、この3人だけは先生で、あとはみんな「さん」付けで呼ぶようにという話がありました。

そうしたら、例えばそれまでは、「村田先生」って呼んでいたんですけど、村田先生のところへ行って呼ぶときに、「村田先生」と言ってはいけないし、まさか「あなた」とも言えないので、「実は……」と言って先生という呼称を言わないように、とにかく先生という呼び方を言わないように、言わないようにするという、そういうときがありました。

聞くところによると、本部の職員の人達もお互いに言いづらかったらしく、つい言っちゃったということがあったそうです。そうしたら、それも瀨木理事長が提案したんだと思いますけれど、10円か100円か知りませんが「罰金を出すことにしましょう」と言って、もう絶対に「先生」と呼び合わないというようなことがありました。

要は、昌美先生・五井先生・由佳先生方お嬢様方以外は、みんな法友で同じなんだということなんです。

ですから、何が言いたいのかといいますと、先ほど私がここに座っていたら、リーダーの方で頭を下げて通り過ぎた方がいらっしゃいましたが、それは必要ないのでこれからも堂々と、このチームのリーダーになったらリーダーとして、ここのメンバーの代表として、堂々としていただけるとうれしいなということです。

もし昌美先生が座っていらしたとしても、どうしてもお辞儀をしたいならされてもいいですけれど、きっと昌美先生も「お辞儀をしなくていい」とおっしゃると思います。

そういう自信を持って堂々と、目の前に座っている人が誰であろうと関係なしに出てきて、印のリーダーとか、統一のリーダーをなさっていただければ大丈夫だと思います。

五井先生との出会い―名古屋駅での邂逅

それで、2月のときにいらっしゃってない方もいらっしゃると思いますのでお話しますが、2月のときは、五井先生の思い出話ということでお話をさせていただきました。簡単にいいますと、初めて五井先生をお見受けしたのが「名古屋駅のホーム」だったんです。

普通、人は、その人独特の雰囲気のようなものが誰でもあるのですが、そのときに見た五井先生は人の気配がなく「あれ、人の気配がないな」っていうふうに思いました。それが一つ。

それでそのときに、旅行カバンを側近の方が持ってたのですが、私がそれをお預かりして歩いていたんですけれど、ちょっとの手違いで私はそれを五井先生の左の膝裏にドンとぶつけてしまったんですね。そうしたらこちらが「ごめんなさい」っていうところなんですけど、先に五井先生が「ごめんなさい」と言って足を引っ込められたのです。

普通だとそういうふうに、突然後ろからボンと旅行カバンをぶつけられたら「何してるんだ」って睨みつけるか、そう言わなくても目が怒っている場合が多いんじゃないかなと思うんですけど、そのときの五井先生は全くそういうことがなくやさしい姿で、「私があなたの行く手を遮ったのね。ごめんなさいね」というような感じでした。

伊勢神宮での不思議

それから次の次の日には、伊勢神宮に五井先生がお浄めに行かれて、そのときも同行させていただく機会がありました。それでずっと見ていたら、拝殿に上がるときの一般常識としては、最初と最後は拝殿のところでお辞儀するのが普通だと思っていたのですが、五井先生はいきなり上がってパンパンパンと印を組んで柏手を打って、そのままスッと後ろを向いて階段を降りてこられたのです。私はそれを見て「お辞儀をしないんだ」と思って、これも不思議な感じだったんですね。

それで後日、今は先生って言いますけど、高橋先生にそのことをお話したら、「五井先生は、肉体人間には頭を下げるんだけど、神様事になると自分より高い神様がいらっしゃらないので、頭が下がらないというふうに五井先生より伺ったことがあります」ということで、「そういうものなんですね」と聞いたことがあります。

五井先生の「わかったよ」

そういうようなお話をさせていただいたのと、もう一つは、私が聖ヶ丘にちょっと用事があって電話したときに、間違えて昱修庵にかけてしまったんですね。当時はダイヤル式の電話で、ダイヤルに指をかけ間違えて、昱修庵にかかってしまったんです。

私は職員が出るとばかり思っていたので「白光真宏会でございます」という声を待っていたら、五井先生が「はいはーい」っておっしゃって出られ、びっくりして黙っていたら、「どうしたの?」と聞かれ、一言二言やり取りがあって、それが終わった後に切ろうと思ったら、五井先生が「君、名前何て言うの?」って聞いてくださって、「井上輝繁です」って答えたら、「わかったよ」っておっしゃってくださったんです。

それで終わったんですけど、そのときの「わかったよ」が、普通の「わかっている」とは全然違ったんです。普通は「名前なんていうの?」と聞かれたら「原田久惠です」と答えれば、「あなたは原田久惠さんという名前の方ね」って相手の言葉を受け取るんだと思うんですけど、そのときの五井先生の「わかったよ」は、「全部、わかっている」「あなたのことを全部わかっているよ」「過去世から何から全部わかったよ」「私が引き受けるから安心しなさい」っていう愛の交流の「わかったよ」だったんです。

そういう思わぬ個人的な交流をとおして、五井先生が愛を返してくださるという体験があって、すごく感動したことがありました。そんなようなことを前回、お話させていただきました。

昭和40年代の聖ヶ丘統一会の思い出

今日はその続きで、昭和45年に会に入って、それでそのあと五井先生にもお目にかかりました。その後、一、二ヶ月して、初めて聖ヶ丘統一会に行ったんです。「どんなところかな?」と思いながら行ったんです。そしたら、五井先生がいらっしゃって、最初は歌があってさっきと同じように教義を奉唱してお祈りをしてという流れで始まりました。

そのときは職員の人かな、講師の方達が前に座っていて、「それで質問ありますか?」と司会の人が言って、会場から質問を受けると司会者の人が「誰々さん、答えてください」って言って、講師の方が答えていました。それで、最後に五井先生が出られご法話をされて、お浄めの柏手やご霊笛をなさって、それで終わったんですね。

そのときの印象というのは、「特にすごいな」というふうには思わなかったのですが、ただ「五井先生がいらっしゃるときと、いらっしゃらないときとで違うんだな」っていう印象を持ちました。

それが一つと、それから五井先生が舞台袖から入って来られてお座りになられたんですね。そのときに、座られていたときなのか、立ったときなのか覚えていないんですけど、とにかくみんなのところに来たら、如来印を一瞬組まれて、それからお祈りして、最後に終わったときもやっぱりそうなさっていて、それがすごく印象的で、「あれは何か、あのときは何か強い光をくれるんじゃないか」とか、そんなふうに勝手に思ったんです。

それで、2回目に行ったときに、「今度、あれをしたときには、ちょっと集中的にお祈りしよう」と思って、自分の思ってる願いとかそういうのを思って「お願いします」とやっていたんです。そうしたら、2回目の統一会のときに、やはり五井先生が出てこられて統一したんです。そのときに何かを一所懸命、集中的にお祈りしたんです。

そうしたら、何も見えも聞こえもしないんですけど、左の前方からパッと熱線が通過したように感じたんです。熱いものがパッと突き抜けたと同時に、その会場いっぱいに何かしら、神々なのか霊的な存在なのか、とにかくたくさんの存在がいて、人々のいろんなもの……、「この病気が治りますように」とか「就職のことが上手くいきますように」とか、これは私なんですけど、とにかく、それぞれの担当の神々なのか霊的な存在なのかわからないんですけど、とにかくいっぱい、ビッシリと道場いっぱいにいらっしゃるっていうことが感じられたんです。

見えもせず聞こえもしないんですけど、感じられた。それで、こんなにどんなことも対応してくださる神々というか、そういった存在がいらっしゃるんだなっていうのが、そのときハッキリとわかったということ。それが2回目の統一会でした。

『五井先生ご降誕感謝祭』のエピソード

それからまた一回一回、参加しているうちに『五井先生ご降誕感謝祭』があったんですね。そういうときには、全国から人がいっぱい集まりますので、早く行こうと思って、名古屋から夜行のバスかJRで東京へ来て、朝5時か6時ぐらいには着いてもう待機してるということがあって、もうどんどん人が集まってきて、もう7時か8時には結構人が来ていて、10時から始まりますけど、9時ぐらいになったらもう、もういっぱいで、だから職員の方が「すいません。もう少し前へお詰めください」とか言って、少しずつ詰めてたんです。

最後の時間には、さすがにそれでも後ろから来られるので、もう最前列の方に詰めてもらう。普通は聖壇から少し間を空けて、壇上が見えるように座るのですが、その最前列の方を聖壇のすぐそばまで詰めていただいて座って待っていた。一番前の方は、それこそ朝の5時とか6時に来られ、一番早くに来て、一番いいところで五井先生を見ようと思って来られたのに、聖壇のそばまで詰めたら五井先生が見えない。

それで皆さんが入って座ることができたんですけど、「この状況を五井先生はどうされるんだろうな」って思っていました。五井先生だからこういう状況になってるということがわかるだろうけど、どういうふうにされるんだろうと思っていた。

そうしたら五井先生が入ってこられて、座るところに座布団があったんですけど、その座布団を演壇の上に乗せたんですよ。それから演壇の上に置いた座布団の上に座わられて、「えー、笑いを一席」と言われたんです。それで会場の人がみんなドッと笑って、一番前で見えないと思ってしなびていた人達も一番前でまた五井先生のお姿が見えてもう大喜びで、涙で頬を濡らしているような、そういう感じでした。「さすが五井先生、全然やることが違うんだ」というふうに思って素晴らしいなというふうに思ったことがありました。

結婚と魂結びのお浄め―個別お浄めから「結婚を祝う日」への転換

そういうことがあって……、そうだ、それで昭和48年11月に私、結婚したんですね。当時は若いですからね、もっとね。多分24・25歳です。それで結婚した後、一週間ぐらい新婚旅行へ行って帰ってきて、一週間くらいしたときに聖ヶ丘道場で『全国青年大会』っていうのがあったんですね。

それで全国の人が集まって、私も妻と一緒に行きました。そうしたら、「魂結びのお浄めをしてくださるから五井先生の部屋へ行ってこい」と言われて、昱修庵の五井先生のお部屋の前で待っていた。そしたら前にお浄めを受けられた方が出てきて、「次、どうぞ」って呼ばれて、私と妻が入っていった。

どういう状況かわからないので、緊張してお部屋に入ったら、五井先生が床の間に座っていて、それでその隣に島田重光さんっていう霊光写真を撮られた方が、カメラをぶら下げて立っておられました。とりあえず「お邪魔します」というような感じで入っていったんですけど、そしたら五井先生は袴を着てらしてみえて、「いらっしゃい」っておごそかに言われるのかなと思ったんですけど、これが違うんですよ。

もう正座してるんですけど、子供が大喜びするみたいな感じで、両手を大きく振って「はい、いらっしゃい。いらっしゃい」って呼んでいただいたんです。それで、もうびっくりして五井先生の前へ行ったら、「もっと、もっと近く、もっと近く」とお側に行かせていただいて、それでパンパンパンと前と後ろをお浄めしていただいた。

いつもは大人数の会場で聞くことが多かった柏手を、小さくて狭い和室の部屋で聞いたときは、もう風船が破裂したのかなというような大きな音だったんですね。しかも綺麗な音でパンパンパンパンってお浄めしていただいた。そしたら「何かが聞きたいことある?」と五井先生に訊ねられて、妻が「私は甘えん坊なので何とか」って何か言ったんです。

そしたら五井先生は私のことを「この人はね、とってもやさしい人だからね」っておっしゃったんです。妻には、赤ちゃんに言うように、一生懸命「大丈夫、大丈夫」という感じですごくやさしかったんです。子供に諭すように話しておられたんです。

それで私も「私はどうでしょうか?」って聞いたらパッと変わってね、妻のときとは全然変わって「勇気だね」っておっしゃってびっくりしました。もう全然雰囲気が変わった。いい意味で変わった。パッと変わって、目がキラッと光って「勇気だ」「勇気を持ちなさい」っていう話で、そんなようなことを言われてわかりました。

そういうお話があった後に、島田先生が写真を撮ってくださって、でも撮っただけでいただけなかったんですよね。「あれはどうなりました?」って聞けばいいんですけど、なんか聞きづらくてそのままにしてしまったということがありました。

その後、そういう個人的な魂結びのお浄めっていうのがどんどんどんどん増えてきたみたいで、それでストップがかかって、それでもうまとめて『結婚を祝う日』っていうのをつくるから、そのときにみんな聖ヶ丘に集まっていただいて、それで五井先生からお浄めしてもらうという形に変わりました。だから私達は、ギリギリでそういう個人的なお浄めをしていただけました。

でもその『結婚を祝う日』も1回か2回あっただけでした。五井先生は私達が結婚した翌年ぐらいからもう人類の大浄めで夜も眠れないような状態が続いていたご様子で、「それでもうそういうことはやっておりません」っていうことになりました。だから一回か二回やって、もうやらなくなりました。ということが、五井先生との思い出です。

昭和55年―ご帰神から富士道場開所の頃

それが昭和47年、48年ですけど、その後は昱修庵にこもりきりになられた。でも、「やがては元気になって、85歳まで生きて、元気になったら私が頑張るよ」とか言っておられました。だけど昭和55年の8月17日にご帰神されたんです。

その日が聖ヶ丘の統一会の日だったんです。その日に行ったんですよ、私。でもそのとき、五井先生はもちろん出られない。昌美先生も出られない。何か「お祈りされています」っていうアナウンスがありました。最終的にお話されたのは佐久間先生で、佐久間先生がお話されて、その日のうちに名古屋に帰ってきたんです。

そしたら夕方4時か5時になったら、同じ青年部の仲間から「五井先生が亡くなられた」と言われた。その頃はまだご帰神という言い方をしていなかった。その後、名古屋の支部長からも電話があって、「五井先生が亡くなられた」と聞きました。「やっぱり本当だったんだ」と思って、「でもどういうこと?」って思ったんです。五井先生が亡くなられるなんてまず考えられないことだったんです。

「どんな大変な状態でも、五井先生は85歳までは生きる。そのうちに元気になって世界中を回って、何か世界のリーダーになる」というふうに思い込んでいたので、「どういうことなんだろう?」と思いました。「イエスキリストは3日で蘇ったっていうから3日までの間にきっと蘇るんじゃないかな」って思った。でも18日がお通夜で、19日に密葬があったという話を聞いて、「もう駄目だ。もう終わったんだ。本当だったんだ」と思いました。

それで、その後23日の日に、白光真宏会の告別式、白光真宏会が行なう告別式っていうのがあって、そこで統一会のように全国からみんな人が集まってきたんです。そのときにすごい人が集まって、もう道場には通常の半分ぐらいまでは祭壇になっているので、その半分くらいのところまでは入っていたんだと思うんです。でも、どういう状況かはちょっとよくわからなかった。

私達も、とにかく外でずっと待っていて、スピーカーから聞こえてくる声だけが聞えていた。そのときに統一テープが流れてきて、瀨木理事長の声だとか高橋先生の声だとかが聞こえてきて、中に入る順番が来て中に入ることができて、中に入ったら祭壇の手前のところに昌美先生と美登里奥様が立っていて、弔問に来られた方々に頭を下げてお礼をしておられました。「何回、頭を下げられたんだろう」と思うぐらい、たくさんの人が来られた。

そういうことがあってその後、8月27日に富士道場ができて、開所式というのがあったんですね。開所式があってそのときは職員とか、理事長、理事ですとかシニアメンバーの人達が、一応何か式典を行なったみたいです。

その後、9月14日に第1回目の富士道場での統一会っていうのがあった。それは今のちょうど別館ですね。今の別館が富士道場の建物でしたので、そこで『開所記念統一会』が行われました。私は行ってないんでちょっとわかんないですけど、そういうことがあった。だから、五井先生はその富士道場ができる寸前まで生きていらっしゃって、間もなくできるっていうときにご帰神された。

「不変不動」の宣言と「平等になった」という感覚

五井先生がご帰神されて、そのときに私が感じたのは「平等になったな」ということでした。それまでは、市川に近い人達は、いつでも五井先生にお会いできる状況だった。でも五井先生がご帰神されたことで全国の人達が平等になった。

その後、「“五井先生って呼べばいいよ。そうすれば、みんなのところに飛んで行くよ”って五井先生がおっしゃっている」と昌美先生から伺ったので、「そうなんだ」と思った。「“五井先生”とお呼びすれば、これからはいつでも私達の中に来てくださって、助けてくださるんだ」っていう、そういうふうになりましたよね。

そういう話で、ちょっともう一回話が戻りますけど、会の告別式のときに、外の庭のところで順番を持っていたときに、そのスピーカーから流れてくる声の中で、瀨木理事長が「白光真宏会は五井先生がご帰神されても不変不動です」っていうお話をされていました。その「不変不動です」っていう言葉にすごく勇気づけられて、力強かったんですね。

「不変不動」っていうその言葉で、きっとみんなその言葉で「大丈夫なんだ」っていう、「どうなることか」って思っていたらそうではなくて、「五井先生がいらっしゃらなくても、世界平和の祈りがあって、昌美先生がいらっしゃって、これからもまた続いてゆくんだ」っていう、そういう何か勇気をもらいました。

理事長交代―瀨木理事長と昌美先生のご縁

理事長のことなんですけど、初めて瀨木理事長の名前を聞いたのは、昭和47年に昌美先生が富士登山をされるっていうときに、一緒に登るときでした。宇宙子科学メンバーの人と、それから青年部が宇宙子科学メンバーの荷物持ちで合流して、合計40数名の人達が富士山に登るということがありました。

そういうふうに聞いてたんですけれど、その中に聞いたこともない名前の方が一人いらっしゃいました。「何その人は?」「瀨木さんっていうらしいよ」ということで、それで「瀨木さんという人は、昌美先生と過去世で縁があって、過去世で昌美先生のお兄さんだった人らしいよ」という話がありました。

後から五井先生がおっしゃるには、「瀬木さんは昌美先生や五井先生と波動がとても似てるので、高橋さんと一緒に瀨木さんも並んで昌美の左右で昌美をカバーするように。応援するように。守ってもらうように」という指示があったそうです。後からいろいろ聞くと、瀨木さんという方は、博報堂の社長だった方で五井会にも入っていらして、それで五井先生とも親しかったらしい、ということがわかってきました。

それで、そうこうしていたら、昭和47年のときのその富士登山は、世界中の神々が富士山に結集して、富士山を通して地球のカルマを浄めるというそういう大神業をするということで、その大神業は、もうずっと昔から行なわれることが決まっていた、ということでした。それを五井先生が一緒に登っては駄目というふうに、宇宙天使から言われていて、昌美先生だけがその中心になってお浄めするっていう、そういうことだったそうです。

それが見事に成功し……、いろいろあったんでしょうけど成功して、それでその後、昭和47年のそれが終わった後に、しばらくしたらまたご神示が降りて、昌美先生をアメリカに留学させるようにっていう、また宇宙天使からの指示があって、その頃の昌美先生はお体が弱かったんだけど、あの富士登山でちょっとは元気にはなっておられたんですね。

でも五井先生が、「私が付いてはいけないし、女性一人を外国に一人で行かせるのは心配だ。誰か向こうでサポートしてくれる人を知らないかい?」って、五井先生は瀨木さんに、当時の理事長じゃない瀨木さんに尋ねたそうです。そしたら、ちょうど私の義理の甥がアメリカにいます。その義理の甥に頼んでおきましょう」ということになった。

その義理の甥っていうのは、瀨木理事長の奥さんのお姉さんが西園寺家に嫁いでいて、そこで生まれた次男の人が裕夫という、裕夫先生だったんですね。だから、瀨木さんの奥さんのお姉さんの次男。その方が義理の甥っていうことで、ミシガン州立大学の大学院に来てるので、その義理の甥に頼みましょうということで、同じ大学に昌美先生は行かれた。

そして、戻ってきたときには、婚約というかね、そういう雰囲気があって仲良くなっていて、結婚するということになったということなんです。だからそのような深いご縁で、昭和48年のときにその瀨木さんっていう方が理事長になったんです。

それまでは横関さんっていう方が理事長だった。五井先生は冗談で「前の理事長は横関さん、今度の理事長は瀨木さん。だから私は咳がね、まだなんだ」って冗談をおっしゃっていると聞いたことあります。それまで横関さんという方が頑張って理事長をされていました。当時も雰囲気としては、すごく家庭的、庶民的な感じで良かったんですよ。

新しい理事長、今度は理事長が瀨木さんっていう方が、理事長になって初めて出てきた。そしてお話されたのを聞いて、「あっ、会が変わった」と思いました。それまでもいいんですよ。庶民的で良かったんです。でも今度はすごく品格が出てきて、なんかぐっと違う感じになったなっていう、そういうふうでしたね。そういうことがありました。

みたままつりのリハーサルで学んだこと

もう一つ、瀨木理事長の今のお話であったのが、今、神聖復活祭、それは以前、『みたままつり』って言ってましたね。今、神聖復活祭では、私達の縁者はみたましろを書く必要がないぐらいに、もうすごく浄められて神々になっている。だけど書くことによって、書いたお名前のその周りの人達が集まって浄められていくから書いてくださいっていう、そういうふうなんですけど、当時は全然違っていて、もう大変な状態だったんですね。

私は宇宙子科学セミナーの訓練を受けた後に、みたましろのお浄めのお手伝いをさせていただくようになって、それでみたましろを捧げ持って、宇宙子科学メンバーにお浄めいただくということをしていたんです。

そういう行事の前日には必ずリハーサルがあって、リハーサルのときに「当日はこういうふうにする」ってやっていた。それで、みたましろって、みんな出し方がそれぞれだし、バラバラに出しているのを綺麗に包装するんですね。それはシニアメンバーの人達が聖壇のところでしていたんです。私はそれをお祈りしながら見ていたんです。そしたら次の年には、「あなた方も壇上で包装を手伝ってください」と言われ、その包装の手伝いをしていたんですね。

そうしたらしばらくしてから、15分か20分ぐらいしたら、昌美先生が聖壇の後ろの方から入って来られて、そうしたら爆発するような、ものすごいちょっと同じ声を出せないんですけど、すごい大きな速い声で「あなた方、何やってるんですか。すぐ降りなさい」と言われた。「誰がそんなことやれって言ったんですか」って。今はゆっくり言ってますけど、もっと早い早いペースで、いっぱいいろんなことを言われました。

私達はびっくりして聖壇を降りて聖壇下に座って、宇宙子科学メンバーの人達も降りてきちんと座ったんです。それで、ものすごいカンカンになって叱られたんです。「誰がそんなことやれって言ったんですか?」とおっしゃって、そしたら「私です」という声が聞こえた。「ここでそんな声出す人がいるの」とかっていう、この状況の中でこれだけ昌美先生がカンカンになって叱っているのに「私です」って平気で言える人がいるのって思ったら、その声の主が瀨木理事長だったんです。

そうしたら、今度はあれだけカンカンになって怒っていた昌美先生がパッと変わって、理事長とのやり取りがすごいなと思って、「私です」と言った理事長もすごいけど、「理事長なの?」って言った途端にフッと平常心に戻った昌美先生もすごい。すごい信頼関係なんだなと思ったんですね。

そしたら昌美先生がね、「理事長、彼らにはね、この仕事はまだ早い。これは単なるただの紙じゃないのよ。この紙を通してみたまたちがいっぱいいるのだから、彼らにはまだ早いから、あなた方だけでやって」っておっしゃった。「申し訳ございません。はい、わかりました」とその理事長も頭を下げて謝る。そういうことがすごく印象に残っています。「あの“私です”って言った瀬木理事長ってすごい人だな」っていうふうに思ったんですよね。そういうことがありました。

「無限なる喜び」をとおした学び

そういうことがあってまた、五井先生の話にちょっと戻るんですけど、五井先生はまだお元気なときに、昭和46年か47年の頃だと思うんですけど、当時はちょうど入信した頃で、同じ世代の人達がいっぱい入ったんですね。青年部が出来て、名古屋でも結構仲良くて、みんなで「どうするか、一緒に行こう」ということになって、それで夜行列車で夜の8時半ぐらいに名古屋を出発して、朝の4時過ぎに東京駅に着くというという感じで聖ヶ丘へ行った。

それだとあまりにも早く着くので、ちょっと待機室にいて、それから一番列車に乗って、市川に行くっていう、そういうふうでした。統一会に一緒に行ったんですけど、そしたらその日、「青年の人達に昱修庵で五井先生が会ってくださるそうだ」という話が入った。「そんなことがあるの」とか思って、それは私達が名古屋から七、八人一緒に行ったから、誰かが「名古屋から青年の人達が来ていますので、会っていただけますか」って言ってくださったのかどうなのかも知れないんですけど、とにかく会ってくださるっていうことでした。

それで、統一会が終わってから昱修庵に行って、みんな2階にある部屋に入って、五井先生が入って来られるのを待っていて、五井先生が来られ、和気あいあいとして、それで「質問なんかある?」と言われて、「ここにいるみんなはね、金星から来たんだよ」とかお話くださった。なんかそんな話をしたりして和気あいあいとした話をしました。そのときに「ブルドーザーで働く人もいるし、ダンプカーで働く人もいるし、あとからホウキで綺麗に掃除する人もいるし、人それぞれ働きっていうのがあるからね」と、そんなような話をして、何か他にも質問あったと思うんですけど、私も覚えてないんですよ。

私がとっても印象的だったのは、私のすぐ後ろの人が「五井先生、神様はなぜ人類を作られたんですか?」っていう質問をされたんです。「いや、その質問、私も聞きたかったんです」って思って、これを聞きたかったんだって言葉にならずにモヤモヤしていたんですけど、「この質問にどういうふうに答えられるんだろう?」って思って見ていたら、五井先生は「ハハハ」って笑って「神様はね、みんなが仲良くするのを見て喜びたいからだよ」っておっしゃられました。

で、後でもう、それ以上お話しされない。「もう終わりなの?」なんか幼稚園の子に話をしてるような、そんなお答えで、でもそれ以上何もお話しされない。だからもう、その質問の答えが終わっちゃったんです。それで他の方は、そういう質問があったことさえ覚えてないんです。

他の方たちは、自分が気になってたことを、みんなのことは「ああいう質問された人がいたな」ぐらいな記憶です。私はとにかく、この質問だけですが、ものすごく重要で、それで「喜びたいからね」の答えに、そのときはちょっとがっかりしたんです。「こんな簡単な答えか」っていうふうに思えてしまった。でも、それが五井先生の答えだったんです。

その後、年数が経つにしたがって、「すごい答えだ」と思っています。あのとき、五井先生は「神様が喜びたいから」とおっしゃった。昔は「神様に喜怒哀楽があるんだろうか?」と思っていたんです。守護霊様が喜ばれるとか、そういうようなのは感じるんですけど、「宇宙を創られた大宇宙神が喜びたいからみんなを創った」というのは「えーっ」とか思って、「大宇宙神が私達を創ったのは、ご自身が喜びたいからだったのだな」と思いました。

それでそういうのがとても心に残っていたんですが、そうこうしていたら光明思想徹底行が始まった。そしたらその中に「無限なる喜び」っていうのが入っていたんですよ。「ここに喜びが入っている」と思って、やっぱり何か喜びっていうのはすごいんだなって感じました。

また別のところで、その「無限なる……」っていう言葉について五井先生が、それは白光誌で読んだんですけど、「神界の奥の奥の奥の世界は、それはそれは素晴らしい世界である。でもその世界の素晴らしさをこの地上界の言葉で言おうと思っても、とても言葉で表現できることはできません。だけど、あえて言葉にするならば、“無限の”という言葉をつけて表現するしかありませんね」ということでした。

無限の愛とか、無限の叡智とか、それは「無限なる」じゃなくて、「無限の叡智とか無限の光とかっていう、そういうふうに表現するしかないですね」ということが白光誌に書いてありました。「ああ、無限なるっていうのは言葉で何か“無限なる愛”、“無限なる調和”とか言っていたけど、それはもうずっとたどっていくと、神界の奥の奥の素晴らしい響きをこの地上界の言葉にして、響かせ合っている言葉だったのだな。だから“喜び”というのも、神の素晴らしい喜びの世界を一方で表現しているんだな」ということを思いました。

そうしたら、またさらに、『我即神也の宣言』、先ほど印を組みましたけれど、宣言文の中に、「神の言葉、神の想念、神の行為とは、あふれ出る、無限なる愛、無限なる叡智、無限なる歓喜……」になって出てきたんですね。「えーっ、また出てきた」と思いました。

「やっぱり喜びっていうのはすごいんだな」と思って、それで「『如是我聞』にひょっとして何か五井先生書いてあるかな」と思って、喜びっていう言葉が入っている、そういう言葉が「如是我聞」の中にあるんだろうかって思ってパッとめくっていたんです。五井先生は、ある言葉に対して、ここではこういうことを言って、こっちではこういうこと言って、こっちではまた違うことを言って、ということはあまりないです。

ここで言っても、あっちで言っても、向こうで言っても、どこで言っても、その言葉に関しては、こういうふうです。素直とはこういうことです。感謝とはこういうことですっていうふうに、大体同じことを言いました。「じゃあ、喜びってあるかな」と思ったら三つありました。

「陽気は神のみ心であるから、神は明るい心を喜ばれる」とあって、明るい心を喜ばれるんだと思ったことが一つ。

それから「明るいことのみを思え、神は明るい心を喜び給うからだ」

「神は光なのだから、常に明るい心の人を喜ぶ」と。皆、とにかく明るい心の人を神が喜ばれるという、そういうことをおっしゃってみえるんです。

だから、我々が悲しんだり沈んだりした心というのは、神は喜ばれなくて、別に大騒ぎしなくても明るい心で生きてゆくことが神の喜びなんだなというのがわかったんです。私は実を言うと、聖ヶ丘へ入ったときに、五井先生以外に、斎藤先生、村田先生、高橋先生、永安先生、佐久間先生といった方たちが立派な方たちだなって思ったんですね。

それで、名古屋の青年の人達。「僕たちも5年ぐらいしたら、10年といかなくても5年ぐらいしたら、かなりのとこまでいけるね、聖者クラスになるかな」とか冗談で言っていたんですけど、何が何が。いっぱいいろんな問題が出てきたりして、それで「明るい心」になれなかった。

集会に行っているときとか、いろいろ活動したりなんかしているときはいいんですけど、一般に普通の生活とか仕事とか、何かのときになかなか明るい心になることができなくて、それで、その喜び、明るい心になることが神の喜びなのに、なかなか明るい心になることができないんだなということを思いました。

「消えてゆく姿で世界平和の祈り」—実践の気づき

そしたら五井先生があるところで、「村田さんとか斎藤さんでも、最初のときは何も知らなかったんだ。何も知らなかったけれど、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』をするようになって、たとえ、どんなことがあっても、たとえ自分は正しくて相手が不合理なことを言ってきても、全部それを消えてゆく姿で世界平和の祈りに変えていったんだ」とおっしゃいました。

そして「何も悪い想念を自分の中に入れてこなかった。だから、みんな中のものがどんどん光が強くなって、中の光と外の光、神々とが一つになって、今のような村田さん、斎藤さんになったんだよ」っていうふうなことを言われるのを聞き知って、それで「本当に消えてゆく姿で世界平和の祈りをしないといけないんだ」と思いました。

なかなかできない自分があって、あとになってから、「あれは消えてゆく姿だったんだ」って思う。でも真っ只中のときになかなか祈れなかった。消えてゆく姿ができなかったんです。そしたら、あるとき、名古屋の同じ同期の青年部だった人が集会で、消えてゆく姿で世界平和の祈りのことについて話しており、「昌美先生がこういう本の中のここでね、消えてゆく姿はこういうふうにするといいと言ってみえるので、私もそういうふうにしています」とか言っているのを聞いたんです。

「ええ、そんなことを、昌美先生が書いてみえた?」って言って、うちに帰ってその本開けて調べたら、本当に書いてあったんですね。それは『我即神也』のご著書の中に「袖すり合うも多生の縁」という章があって、その中で「消えてゆく姿で世界平和の祈りをするといいと言っても、やっぱり人それぞれ、消えてゆく姿で世界平和の祈りの捉え方というのがそれぞれなので、残っちゃうし、後からまた残ったのをやるという、そういうふうになる人もやっぱりいるので、その程度によっていろいろです」ということで、「でも、こういうふうにお祈りしたら、100%消えます」と書いてあります。

それは何かというと、「ああ、これで自分の前生の因縁が消えたのだ。何とありがたいことであろうか。神様、ありがとうございます。守護霊様・守護神様・五井先生、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」と、こういうふうにしたら、それがそういうふうにお祈りできたら、これで100%消えたことになるということが、はっきり書いてあるんです。

「へえ」と思ったんですが、これは大変なんです。じゃあこれを覚えて、いざというときにこの言葉を唱えて思い出そう。とにかく覚えて、この言葉を唱えるんだっていう気持ちもあったんです。ちょっとやって「もう一回読んでみようかな」と思って読んで、もう一回読んでみてってやってゆくなかで、はたと気づいたことが二つあったんです。

一つは、「ああ、これで、自分の前生の因縁が消えた」というのは、自分なんです。どんなことも自分の前生の因縁が消えたということです。

その次に、「ああ、何とありがたいことであろうか」ですが、私はまったく自分の因縁とは思えず、「あれはあの人がよくないので、あの人もお祈りしてあげなくちゃ」って、「あの方の天命が完うされますように」というようなふうにお祈りしていたんです。

それは違っていたんです。自分にそういうことがあるっていうことを言われたり、そういうことが起きるっていうことは、とにかく自分がそれを耳にして、そういう言葉を受けたとか、そういうことが起きたっていうことは、自分の前生の因縁だっていうことを、はっきり自覚しなきゃいけないんだなってわかりました。

それと、「何とありがたいことだろうか」と、今までよりもなお感謝する必要があるんだなということでした。これをどちらもやっていなかった。いや、知識では知っていたんです。知識では知っていたけどやってなかった。

山崎多嘉子さんが、五井先生の思い出話の本の中で、五井先生に「五井先生、私最近、五井先生のみ教えが頭では何となくわかってきたような気がします」と言われたそうです。そして「そう、それはよかったね」と言われると思ったら、キリッとした声で「頭でわかったって、何にもなりゃしない。体でわからなきゃ意味がない」というようなことをおっしゃって、それから自分は、ああ、そうなんだ。頭でなくて、ちゃんと体で行動しないといけないんだと言うことを肝に銘じたというようなことをおっしゃっているし、書いてあります。

そういうことで私達も、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』は知っていたけど、ああ、いや、全然自分の消えてゆく姿と思ってなかったし、「何とありがたいです」とも思ってなかったなということがよくわかりました。

とにかく何かあったときには、「いや、不合理だな」っていうふうなことがあっても、「これで自分の前生の因縁が消えたんだ」って、とにかくその言葉を言って、その後ももう気が済むまで言って、気が済むまで何回も言って、その後、世界平和の祈りに結びつけてゆくっていうことで、すごくなんかやりやすくなって、本当に、「いやこれは自分のものだったんだな」っていうのがわかってきました。そうやって、後からだんだん理解できるようになりました。

ですから、もしよかったら、やってみてください。「これで前生の因縁が消えたな。何とありがたいことであろうか。神様、ありがとうございます。守護霊様・守護神様・五井先生、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」というお祈りを覚えていられるとよいという昌美先生の推薦、「こうするといいよ」っておっしゃっておられるということです。

ということで、これからも、今のその想いが未来を創るのですから、だから、今をおろそかにせず、自分の今が明るく希望を持って、自分でやったら未来の新しいそういう明るいのが現実になるし、人類のためにも働きかけることができると思います。

神聖復活の印と神人

昌美先生が『神聖復活の印』についていろいろおっしゃっていますけれど、その中で、特に私が印象的なのは、この神聖復活の印の本質というのは、全世界が平和になることを信じて、全人類が平和になることを信じて、輝かしい地球の未来を信じて、それで、世界人類全ての人々が幸せで、平和になることを信じて、それで人類の一人一人が神聖復活するということを祝福して組むというものです、ということです。

だから平和な輝かしい地球になることを信じて、全人類が幸せで平和になることを信じて、全人類、個々人一人一人が神聖復活するっていうことを祝って組む。祝って組むっていうことは、全人類に向かって「おめでとう!おめでとう!」「みんな神聖復活おめでとう!」っていう、そういう意識で組むと、これが神聖復活の印の本質だというふうに思っています。

もう一つだけ。あるとき、これは我即神也、人類即神也の印が出た後にお聞きしたことで、昌美先生に「最近、昌美先生は神人っていうことをおっしゃいますけれど、神人っていうのはどういう人なのですか?どういう人を神人って言うんですか?」ってお聞きしたことがありました。そしたら、昌美先生がおっしゃるには、神人っていうのはね、五井先生のみ教えを理解して世界平和の祈りを担っている人のことよ。

印を組むとかってそういうことじゃなくて、ちょっと意外だったんですけど、でもよく考えたら、五井先生の真理を本当に理解して世界平和の祈りを祈っていたら、「神聖復活の印を組むといいよ」って言われれば、「わかりました」って組むだろうし、「こういうことをするといいよ」って昌美先生が言われればそれは五井先生の言葉としてそれもするなと思いました。だから、やっぱり元になるのは、五井先生のみ教えと世界中の祈りなんだなって思いました。

そうしたら、同じような質問を佐久間さんが昌美先生にしていたっていうことが後からわかりました。佐久間さんはちょっとニュアンスが違って、「昌美先生、神人になるとどうなるんですか?」って聞いたそうです。そしたら昌美先生の答えが、「佐久間さん、神人になるとね、普通になるのよ」って言われた。だから私達も神人になってないときは、まだ普通じゃなくって、ちょっとまだいろいろいろいろある。神人なるということは、いろんなものがある程度全部なくなって、本当に神と一つになった状態、それが本当の普通の普通の人、それが神人なんだろうっていうことなんだと思います。

だから、これからも五井先生のみ教えを理解して、世界平和の祈りを祈って、神聖復活の印で地球の未来を明るいものにするぞって言って、「人類さん、おめでとう!神聖復活、おめでとう!」って言って、心の中で祝福しながら普通の人間になりたいと思います。どうもありがとうございます。

以上