Zoom祈りの会メルマガをお読みの皆さまへ
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【日時】
11月23日(土) 20:50 〜
【当日のプログラム】
『神聖で繋がり合う日』のプログラム
【ZoomのURL】
https://us02web.zoom.us/j/6980729270?pwd=nW9HgFrjw71kpe38gTNS-rdtnvZ3Rw.1
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テーマ【神聖復活のかなめ『消えてゆく姿で世界平和の祈り』】
私たちが『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を徹底的に実行し尽くしてゆく先には、次の宣言をして恥じず、衒(てら)わず、自然体で毅然としていられる意識境涯が待っています。
「私が語る言葉は、守護霊・守護神の言葉であり、私が発する想念は、守護霊・守護神の想念であり、私が表わす行為は、守護霊・守護神の行為である。」
私たちは『神聖復活』を目指して生きておりますが、完全なる守護の神霊との一体化を、肉体表面意識に実感出来るのは、何年先か、何十年先のことかはわかりません。しかし、元々守護の神霊と一つであるということは、分霊(わけみたま)の始まりからの事実であり、今の意識が「その通りである」と腑に落とした状態で思えれば、今この瞬間にも体得でき得る魂の真実です。またそれは、『神と人間』に書かれている"魂の実態"でもあり、魂を構成する”七つの心”が混然一体に統合調和された状態でもあります。
思い返せば、『神聖(神性)復活』という言葉が初めて使われ始めたのは、私の記憶が間違っていなければ、2011年4月3日(日)、富士聖地で行なわれた『宇宙究極の光を降ろす行事』のことでした。それは、行事の最中にご神示が降り、昌美先生の先導で私たちが唱えた次の言葉の中にありました。
「日本は世界平和の象徴。平和の型。神人は神性意識をつくる大天命を持つ。世界に先駆けて、日本からまことの神性復活が始まる。すべて神人にゆだねられている。宇宙神、五井先生、大光明霊団、私たちは誓います。必ず地球を平和にいたします。お任せ下さい。」
そのときを境に、頻繁に『神性復活』という言葉が使われ始め、やがて『神聖復活』と漢字を変え、2017年7月2日(日)、『神聖復活目覚めの印』が正式に地に降ろされ、『神聖復活の印』と名称を変え、今日に至っています。
また、「神聖」や「神聖復活」という言葉が日常的になってゆくに伴い、神聖復活の印を組む人々の一部に、「もう神聖復活の時代なのだから、消えてゆく姿は行なう必要がない」という流言が飛び交ったのだそうです。私はそうした動きに縁がありませんでしたが、複数の方々から後になって伺ったお話によりますと、そうした動きに対してジレンマを感じておられるご様子でした。
しかし、世界平和の祈りにつながるひとりひとりが、たとえ何を考え、何を語り、何を行為したとしても、それは、当人と守護の神霊の問題として消えてゆく姿を実践している姿であり、すべては神聖復活に至る途上の景色であります。
ですから私たちは、五感に何を見聞きし、自他に何を感じたとしても、『人類即神也の宣言文』にあるように、すべてを「人類即神也を顕すためのプロセス」として観て、いかなる批判・非難・評価も下さず、それらに対して何ら一切関知しない生き方を練習してゆくことが大切です。ここで書かれている「人類即神也を顕すためのプロセス」とは、ひとりひとりが「神聖復活を果たしてゆく道のり」と言い換えることもできます。
そこで本題に入りますが、私たちひとりひとりのこの世的な功績(その人が成し遂げた成果や肩書き等)と、意識進化は比例していません。功績は功績、意識レベルは意識レベルです。
世界平和の祈りを祈ることは、昔から言われているとおり、天の倉に宝を積む行為です。世のため人のために、身を粉にして働くことも同様です。しかしそれだけでは、その人が魂の課題・宿題としてこの世に持ち越してきた『把われの想い』は完全に消え去ることはありません。『把われの想い』とは、いつも申しますとおり、心の中にこびり付いている一方的な思い込み・決め付け・こだわり・執着等々の想いであります。
そこで五井先生は、世界平和の祈りを提唱し始めた最初の頃から、「『消えてゆく姿で世界平和の祈り』をやればいいんだよ。それは簡単なように思えるかもしれないけれど、本当に真剣にやり込んだら、自分がどこまでもどこまでも立派になってゆくんだ。これにまさる救われの道はないんだよ」というようなお話をされていました。("消えてゆく姿の実態"については、『人間と真実の生き方』のなかに書かれています)
ここで忘れてはならないことは、「世界平和の祈りだけでいい」とも「神聖復活の印だけでいい」とも、今日に至るまでの間、公の場では一言もおっしゃられていないという点です。(個別の事案に対するご指導の場面では、「あなたの場合は"神さま、ありがとうございます"だけでもいいね」とおっしゃられたり、一時的な困難を乗り越えるために「私の名を呼びなさい」といったご指導をされたりしていたことはあったそうです)
なぜ五井先生は、『世界平和の祈り』だけを説かずに、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』というふうに、"消えてゆく姿"と"世界平和の祈り"を結びつけて説かれたのでしょうか?五井先生が肉体界におられた時代のご講話を、初期から昭和55年まで聞き直してみますと、徹頭徹尾『消えてゆく姿で世界平和の祈り』をみんなが行なえるように、といった内容のお話ばかりをなさっていますし、書き残された数々の書籍・文章の中にも、同様のことが書き記されています。
そのようなことから私は、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』は、私たちが死ぬ瞬間までやり続けるべき金科玉条の生き方であり、歩むべき道だと思っております。そして大切なことは、『消えてゆく姿』は、『自分で消してゆく姿』ではなく、『守護の神霊に消していただいている姿』であるという点です。そこを間違えますと、『人間と真実の生き方』から外れた行じ方になってしまいます。
「ああ、(自分の)この想い(感情の動き)が消えてゆく姿だったんだ。世界人類が平和でありますように」
「ああ、こうやって表わして消してくださって有り難いなあ。守護霊さま・守護神さま、ありがとうございます」
「ああ、認めたくないけど、こういう想いの動きが消えてゆく姿なんだなあ。守護霊さま、気付かせてくださってありがとうございます。私たちの天命を完うせしめ給え。世界人類が平和でありますように」
そのように、年がら年中、守護の神霊に話しかけ、交流し、繋がり合いながら行なうのが、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』であり、『消えてゆく姿』と観るべき本丸は、私たち自身の『把われの想い』であります。広義な意味合いで、世の中や他人の動きを指して「あれは消えてゆく姿」と言う場面がありますが、それは、私たちが自らを内省して行なう『消えてゆく姿で世界平和の祈り』とはまったく別の話であり、内面(本質)的な実践とは異なるものであることを理解する必要があります。
私たちが歩む道は、神聖ファーストの時代になっても、神聖復活の印が主たる行になっても、『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を根底にした道です。その『消えてゆく姿の実践』は、『心の掃除』に例えることが出来ます。心は家のようなものであり、掃除をしなければ知らない間に、自惚れや自虐・勘違いといった性質の埃(ほこり)がたまります。ですから私たちは、死ぬまで『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を行ない続ける必要があるのです。それは体を清潔に保たなければ垢がたまるのと同じです。
そのようなことから土曜日の夜は、『把われの想いを見つめ手放す時間』と、『守護霊・守護神との繋がりを深める時間』を取って、最後に神聖復活の印を組んでまいります。そうした取り組みを日常生活に取り入れることにより、私たちは神聖復活という大いなる目標へと一歩ずつ、近づいてゆくことができるのであります。
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【当日のプログラム】
● 1. 世界平和の祈り
世界人類が平和でありますように。
日本が平和でありますように。
私たちの天命が完うされますように。
守護霊様、ありがとうございます。守護神様、ありがとうございます。
May peace prevail on Earth.
May peace be in our homes and countries.
May our missions be accomplished.
We thank you, Guardian Deities and Guardian Spirits.
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● 2. 把われの想いを見つめ手放す時間
想いの癖を見つけて手放す時間を取ってまいります。
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● 3. 守護霊・守護神との繋がりを深める時間
守護霊・守護神と私たちが常に一体になって生きている事実を思い出し、繋がりを深める時間を取ってまいります。
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● 4. 神聖復活の印
大自然と生きとし生けるものと人類すべてを抱きしめながら、宇宙神の光を送ります。
[神聖復活の印を七回連続]