1月20日(土) 午後8時52分から 『神聖で繋がり合う日』
Zoom祈りの会にご参加の皆さまへ
【Zoom】
https://us02web.zoom.us/j/6980729270?pwd=nW9HgFrjw71kpe38gTNS-rdtnvZ3Rw.1
【YouTube】YouTube URL一覧
https://zoom.peace51.net/youtube-url_jp/
パスワード: peace
『人類即神也』という宣言の言葉があります。そこには、人類の神聖を認めて生きてゆくための基本的な在り方が書かれています。その冒頭には、”人間が本来あるべき姿”が高らかに謳い上げられ、次の段落では、人類の想念・言動行為に起因する様々な事象や人間達のあり方がすべて、神聖を顕すに至る過程である事実が書かれています。そしてその次の段落には、次の言葉があります。
「故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。」
この部分に関しては私自身も長年、「理屈としてはわかるけれど、なかなかそのようには思えない」と思っていました。しかし神聖復活の印を組むようになって以降は、いつの間にか『人類即神也』の宣言文に書かれてある通りの生き方に近づいている自身を実感するようになってまいりました。
何故そのように実感できるようになってきたのかと申しますと、自他に感じた想いの原因を自分に向け直し、その正体を見つめ直す事に取り組んできたからです。そのプロセスにおいて、「いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず」を、知らない間に実践していたのでした。
どういうことかと申しますと、自心の奥深い部分をくまなく見渡す際に行なっていたことが、いかなるジャッジメント(批判、非難、評価)も脇に置き、どんな想いにも感情移入をせず、ただ”あるもの”を見つめる立場に立っていたため、「いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず」を踏み行なうことになっていたということでした。
それは言葉を変えていえば、種々な立場の『当事者』にもならず、無関心な立場の『傍観者』にもならず、唯々関心を持ちながら見つめているだけの『観察者』としての意識を養い育てる行為でした。そのことから「いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず」は、神聖の立ち位置にある俯瞰の視座から、感情を動かさずに見つめている『観察者』の境涯であるといえます。
「うつるもの おのずうつりて おのず消ゆ 己れは澄みて ただひそかなり」
このお歌は、悟りの心境を顕わした歌であり、土曜夜の『神聖で繋がり合う日』の始まりに流れるテーマ曲でもあります。そしてこのお歌は、悟りを開いた人の心境が“神界から関心を持って地上を見渡す『観察者』”であることを示唆しております。
具体例を挙げますと、自分が正しいと思っている神聖を発揮するための方法と違うやり方を主張する人が目の前に現われたとき、自分が人間感情を自身だと信じ込んでいる場合は、感情のうごめきに基づいて、反対意見を思い浮かべます。思い浮かべる段階で踏みとどまれば俯瞰の立場から自分を見つめ直すことができますが、感情と同化している場合は、相手を自分の思い通りに動かそうと説得を始めます。
説得するという行動を始めた段階で、その人は関心を持って見つめる『観察者』から、それぞれの立場の『当事者』に自らを押し込め限定してしまいます。『当事者』や『傍観者』になった場合、私達は知らず知らずのうちに、神聖の立ち位置にある俯瞰の視座から離れています。
別な例を挙げますと、自分ともう一人の人がいる場所に、きれいな花が咲いているとします。自分はその花を「美しい」と思い、それを言葉に表わします。目の前の人は「なんだ、こんなもの、美しくなんかあるものか」と言いました。
そのとき、自分が感情そのものとして動いている場合は、たいがい口論になります。それは、自分の認識を相手に強制するからです。自分こそが正しく相手は間違っていると、無意識のうちに思い込んでいるためです。
『観察者』の視座を持っている人は、「私はこう思っているけれど、この人はそう思っているのだな」と思い、それで終わりです。想いや人の行動、世界のあり方などに対して、見ることに徹するわけです。
その意味で、「いかなる批判、非難、評価も下さない」ということは、観察する人に徹することだともいえます。また、「それらに対して何ら一切関知せず」は、決して「無関心であれ」「傍観者であれ」と推奨しているのではなく、感情移入する気持ちを脇に置いて、観察に徹することの大切さを表現しています。
「故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。」の言葉は、私達全員が目指すべき境地だといえます。
私達が人類に先駆けてこの境地を自身の生き方に融合させることで、世界人類が神聖復活する道が開かれます。なぜならば、完全平和が樹立された世界とは、みんながこの境地に立った世界であり、一人一人が個でありながら全体を俯瞰する(ただ観察する)眼を持って生きている世界だからです。
土曜日の夜はそのように、個人の気持ちはそのまま脇に置き、心の奥に初めから実在していた『観察者』としての神我を表面意識に自覚して、あらゆる自然と生きとし生けるものと人類に、生命の源から発する慈しみの光を放ってまいります。
【当日のプログラム】
1.世界平和の祈り - 日本語と英語
2.ワンネスのメディテーション
私達は今、神聖文明を築きながら共に働いている。
We are now working together to create a Divine Civilization.
人類も手を取り合い、協調の道を歩み始めた。
Humanity is also beginning to walk hand in hand toward the way of harmony.
3.五感の次元上昇の宣言
*眼
「この眼は人を見るためだけにあるのではない。人の中に光を見出してゆく為の器官である。」
*耳
「この耳は人の言葉を聴くためだけにあるのではない。真理の言葉を聞く為の器官である。」
*鼻
「この鼻はにおいを嗅ぐためだけにあるのではない。呼吸法によって宇宙神、本心と交流する為の器官である。」
*口
「この口は食べるためだけにあるのではない。真理の言葉を語る為の器官である。」
*触覚
「この手足は触れるためだけにあるのではない。大自然、生きとし生けるものの中に神のひびきを感じる為の器官である。」
4.地球世界感謝の印 12項目
地球世界感謝の印は、動画に合わせて行ないます。
5.神聖復活の印(一回目3回、二回目5回、三回目7回)
神聖復活の印を組んでいる間は、地球の映像を表示します。
(FAXでのご参加、または時間を合わせてご参加くださる方は、公転しながら自転する地球を大気圏の外から心眼で俯瞰している気持ちで神聖復活の印をお組みください)
<一回目の宣言> ※印を三回連続
私達の肉体は本来、宇宙神と一つに結ばれている。
故に私達は、その無限のエネルギーで肉体を活性化し、神そのものとして生きてゆくのだ。
<二回目の宣言> ※印を五回連続
私達の心は本来、宇宙神と直結している。
故に私達は、宇宙が私達の心の中にあることを自覚し、調和した心をもって生きてゆくのだ。
<三回目の宣言> ※印を七回連続
私達の魂は本来、宇宙神の光の分神である。
故に私達は、宇宙を創造し動かしているその大いなる力を、肉体の心と体に活かして生きてゆけるのだ。
6.世界平和の祈り - 日本語と英語
以上
無限なる感謝
斉藤雅晴