「神人」第15号(2004年11月)より
(29)
木や花の精についてお話し下さったことがあった。
「聖ヶ丘の庭を歩くと"ゴイセンセイ、オハヨウゴザイマス"という声が聞こえる。はじめは誰かな? と思って見廻わしたけど、誰もいない。よく見ると、それが小さな花たちなんです。とてもかわいい。花の精はいかにもその花らしいって感じでネ。だから私はいつも話しながら歩くんです。
愛宕神社の大銀杏、それは樹齢四百年くらいで、銀杏の精は白い鬚の老人の姿が迎えてくれる。松の木はまたちょっと珍しくてネ、透き通った黄みどり色の衣冠束帯で現われます」
(30)
「私は常識人です。家を空けて出る時は、必ずガスは閉めたか、電気はどうか、水道はしまっているか、戸締りは大丈夫か……と確かめます。不安なのではない。この世の生活としてそうするのが当り前でしょ。当り前のことを当り前にするのが大事です」
(31)
「夫婦というものは、親子のような関係になってしまうと、うまくいくんだろうね。例えばあるうちの場合、完全に父と娘だからね」
とあるとき先生はおっしゃった。
聞いておられた村田正雄さんが殊更目をまん丸く、クリクリさせて云われた。
「うちはお母さんですわあ」
どっと笑いが起った。
(32)
映画館で"キング・オブ・キングス"の映画をご覧になった時のお話を、五井先生がして下さった。
「あれはいい映画だったね。聖書に基づいて作った何本かの映画の中で、イエスさんのことが一番よく表れているように思うね。あの主演男優はイエスを演じるために生まれてきたような人だ。目がきれいだった。
イエスさんがローマ兵に捕らわれて、後手に縛られてピラトの前に引き出されるシーンがあったでしょ。あの辺から本もののイエスが入ってきたんです。あの場面からガラリと変った。神の姿のイエスになった。
はりつけのところでは、画面のイエスさんが、パーッと私に光を送ってよこした。私は観客席で大きく手を広げるわけにいかないから、こういうふうに(小さく両手をひろげて)それを受けたんです」
私は吸いこまれるようにお話をうかがっていた。その時、夫が一言発した。彼はよく先生のお話に対して、漫才の相棒のように、すぐあいの手を入れる面白い癖があった。
「先生、私はなぜかあの映画を見て頭が痛くなったんです。いっしょに見ていた家内のほうは何ともないのに!」
先生はチラッと私の方に目を向けてから「それは、それだけのわけがある――」
「エッ、それじゃわたしはユダだったのですか?」
「いやいや、ユダじゃあないよ。ハハハ」
と先生はお笑いになった。皆も彼の表情がおかしかったので笑い出された。
何日かたってから彼は云った。
「そうかあ、もしかしたらペテロだったのかなあ……」(これは少々アツカマシイ)
真偽のほどは全く知りません。
(33)
江戸時代にキリスト教禁止の際に行われた、という踏絵の話が出たことがある。
「踏絵については、どう考えるべきでしょうか」という質問だったのであろう。
先生は、「そんなことで信仰心の深さなど測れるものではない。今の世の中では勿論あり得ないことだけど、もし私の写真が踏絵に使われたらどうします?
そんな時は遠慮なく踏めばいい。
私は痛くも痒くもない。
踏まないで処刑なんかされたら、本人はいいとしても、家族はどうなるか。家族はやりきれないでしょ。
堂々と踏んでおいて、あとで真理のために働けばいいでしょ。
踏まないから信仰心が厚い、踏んだから信仰心が薄いかと云うと、そんなものではないんです」とお答えになった。
(34)
ある日、元クリスチャンで、今も時々教会を訪れるという一人の法友が云った。
「キリスト教では、人類の犯してきた様々な誤りをみんなで懺悔して、泣きながらおわびの祈りを神に捧げているけれど、私たちはそんな罪の許しを乞う祈り方はしなくていいのかしらね」
この言葉は前生クリスチャン(五井先生のお言葉によると)である私には少々心にかかるものであったのだろう。昱修庵で五井先生にお伺いしてみた。
「先生、人類は今まで生き方を間違ってきたのでしょうか?」
私はどこか悲しみを含んだ重い気持だった。
先生は即座にキッパリとおっしゃった。
「いいえ、人類は間違っていません。間違ったように見えるのは、人類の消えてゆく姿のほうでしょ」
私は咄嵯に涙が出そうな感動を覚えた。
「ハイ有難うございます」と最敬礼した。
この「有難うございます」は、なんと、瞬間、人類の代表者になったような気分で、心から五井先生に感謝申し上げたのである。
それは震えるほどの感謝であった。
最高の幸せであった。